広報誌 栃木いのちの電話 第120号
広報誌 第120号 / シリーズ listen
無言館
栃木県スクールカウンセラー 小牧明広
見えぬものを見、きこえぬ声をきくために
案内文より
ドアを開けたとき、静謐さの中に何か深い息づかいのようなものを感じたその感覚は、私にとって初めてのものでした。
信州上田塩田平の丘にひっそりと小さな美術館が建っています。戦地に赴く前に画学生(主に東京美術学校=現東京藝術大学)が描いた絵を、窪島誠一郎氏が全国を回り蒐集しました。平成9年5月に開設したのが、この戦没画学生慰霊美術館無言館です。
出征の前に恋人の裸婦像を描いた日高安則氏、いつも見慣れている自宅前の一本の小道と木々を描いた伊澤洋氏、可愛がっていた妹の着物姿を描いた興梠武氏、背を丸めて座っている母の姿を描いた千葉四郎氏、皆戦地で亡くなっています。
死を覚悟しこの絵が最後になるのかもしれないという恐怖・絶望そしてもっと絵を描いていたい、生きたいという願い・希望の叫びが、館内に静かに存在します。
絵の前に立つと、見る、眺める、鑑賞するものだという概念は吹き飛び、絵からは「わたしはここにいますよ」「どうしてここに来たのですか」と、真正面から語りかけられているような気がしました。言葉には置き換えられませんでしたが、間違いなく心の中で応答している自分がいました。
「対話」とは、文字通り「向かい合い、互いに話をする」の意味ですが、「会話」と異なるのは「あらたなものを一緒に創造すること」と捉えることもできるでしょう。あの時間は押しつぶされながらも絵と対話をし、自分自身とも対話をしていた時間だったように思います。
「見る」ことができない電話相談においては、言葉を聴くことが頼りです。一つ一つの言葉を大切に受け止め、感じ、その人を思い浮かべ、思い描くこと自体が、真摯に向き合うことの原点になるのでないかと考えます。
コーラーは混乱しながらも自分の言葉を紡いでいきます。誰かに聴いてほしい、電話の向こうに誰かを思い描いています。厳密には「相談」と「対話」は異なるかもしれませんが、「相談」と「真の対話」は近いところにあるように思います。
様々な電話相談の中で、聴いている自分は誰なのか、何のためにどう聴いているのか、そしてどうしたいのかなど自分に向き合わざるを得ないことがたくさんあります。あらためて「聴く」という行為は難しいものだと思います。
無言館へ向かう坂道には自問坂という名前がつけられていました。